このページではポケ喫茶がどのような歴史をたどって現在の姿になったのかを説明しています。ほとんど自伝で、前半だけやたら濃いのが自慢です。
2006年夏、マスター銀時が掲示板「ポケモン ダイヤモンド・パール 攻略+裏技」(以下、某板)にスレッド「ポケ喫茶」を立てたのが起源。スレッドタイトルのインパクトに加え、コピペ「バーボンハウス」がそのまま貼ら れたレス番号1の書き込みに面白みがあり、30秒間でおよそ7つのレスがついた。しかし、その後の伸びは不調であった。 当時の生活に退屈さを感じ、パートスレッドに憧れを持っていた私は、自分がレスをし終えるまでに10個ものレスがついたこのスレッドに感銘を受 け、このスレッドをパートスレッドにしようと決心し、スレ主マスター銀時(以下、銀時)と雑談をすることでレスを増やすと共に「ポケ喫茶」の存在を知らしめていった。 ちなみに、当時某板は現在の2ch掲示板「ニュース速報(VIP)」と同等の勢いを持っていた。1秒毎に書き込まれる程である。恐らく、日本にあるダイヤモンド・パールについての掲示板で、一番の勢いを持っていたことだろう。
程なくして第2のスレッドが作られると、この時点でスレッドに常駐する人々 (以下、スレッド住民)が数名居たため、スレッドの伸びは好調であった。その後スレッド住民の結束が固まり、親 しみやすい雰囲気が人気を呼び、パートスレッドとしての地位が確立した。 この頃は雑談が主ななりきりスレッドで、よく書き込む者にはバイトやマスター等の称号が与えられ、キリ番を取ることにより配布が行われるなど、様々な工夫がなされていた。
しかし、当時の某板副管理人であったアズールムーンが新たに掲げた「団スレ禁止」の方針に違反したとみなされてスレッドが消され、「ポケ喫茶」は事実上一時休止状態になってしまう。 ちなみに団スレとは、“〜団をつくろう!”といったタイトルの、いわばグループを作る趣旨のスレッドである。 ここで救いの手を差し伸べたのがマスター銀時である。「したらば掲示板」から掲示板をレンタルし、「ポケ喫茶」の住民を呼び寄せた。そこまでする必要はないんじゃないかという住民が居る一方で、掲示板を借りる知識が無かった住民たちは驚嘆した。 早速私が以前から憧れていた副管理人に立候補し、副管理人となった。
独立して掲示板となったポケ喫茶の盛り上がりは決して好調ではなかった。 まず、勢いのある某板では住民を呼び寄せることだけでも困難だった。某板は宣伝対策に力を入れていたため、満足にURLを貼ることさえ許されなかった。 5時〜7時頃になると盛り上がるが、9時ごろにはもう誰も居ない。そんな状況が続いていた。
それで満足できなかった私は、某板に執拗な宣伝をした。ただのスレッドの乱立なのだが、ただでさえ人が込み合っている某板で、スレッドを削除し、規制を行 うということは非常に困難であり、今思い返してみれば非常に迷惑な行為だったといえる。数分後、私はホスト規制されて書き込めなくなり、某板に別れを告げると共にそこでのそれ以上の宣伝を断念した。 そこで私は某板の関連掲示板に目を付けた。某板に大量に蔓延っていた消防よりも、そこの方が良い人たちが居た。 私はそこから計画的に人を呼び寄せ、ポケ喫茶は盛り上がりを見せ始めた。
一方、私は「裏ポケ喫茶」「常連ポケ喫茶」などの掲示板を新たに立て、より掲示板を楽しめるようにした。そして、暇な時間をHTMLに費やした。隠しリンクで裏ポケ喫茶にリンクさせ、常連ポケ喫茶へのアクセスにはパスワードを必要とさせた。 やがて住民たちが真似をしてそれぞれ自分の掲示板を持ち始め、「ポケ居酒屋」「ポケモンレストラン」など色々なバリエーションの疑似掲示板が出来た。 一方、銀時が気に入らない人間を規制することが数多くあった。そのことに反発した私はそのような事が起こる度に衝動的に管理パスワードを変えたが、それ以上のことはしなかった。
ある日、住人のススススと銀時が喧嘩をした。この日、突如として何者かにパスワードが変えられ、次の日に閉鎖された。 今までのものが全て崩れ去ったのかと思うと、怒りと悲しみの混ざり合った感情が湧き上がった。 これ以降の話は全て常連ポケ喫茶を改名した、二代目ポケ喫茶での話である。
私はこの事態を受け、常連ポケ喫茶をポケ喫茶に改名して移転することにした。 住民を取り戻すには某板で宣伝するのが確実だったが、前述した通り私は某板で規制を受けており、相互リンクをしていた掲示板や疑似掲示板に宣伝をするしかなかった。 その後、定期的に宣伝をして、某板のサブ掲示板から流れてきた者、アズールの乱雑な規制に巻き込まれた者を寄せ集めることでなんとか住民を確保し、新しくポケ喫茶がスタートした。 そしてしばらく平穏な日々を送っていた。
ある日、銀時がリア友を連れてきて、それが引き金で住民が増えた。
ある日、銀時が天空ポケ喫茶を開設。聖なる場所(?)として親しまれる。この天空ポケ喫茶は後に避難所として活躍することになる。
クリスマスには私が作ったあわてんぼうのサンタクロースのmidiが流された。銀時がポケモンを配布するはずだったが来なかったため、クリスマスは過疎だった。 ちなみにこのmidiは、私がポケモンセンターのmidを作り終え、置き換えるまで流されていた。
その後まもなく、とうとう私は管理権を奪取してしまった。 住民たちは言うまでも無く私を叩いた。傍から見れば管理権に目が眩んだ暴走なので、それもそのはずである。マスターNは銀時の独裁管理に反発を覚えていたが、それを表に現すことは滅多に無かったからだ。擁護派も居たが、私が考えていたことを理解していたとは言い難い。 銀時は「銀時の部屋」という掲示板を立て、それに対抗した。約半数の住民はそちらに住み着き始めた。そこには、マスターNに対する悪口なども書き込まれていた。 しばらくして天空ポケ喫茶にて和解し、再び二人の管理に戻る。
ある日ぽっぷちゃっとを設置。
私はスレッド住民となり、仲良くなったところでさりげなく宣伝をすれ ば、友好の証とみなされて悪い印象を与えないのではないかと考えた。そして私は某板にいくつもあった雑談スレッドの1つに参加し、定期的に書き込んでい た。ある日、某板に雑談スレッドがいくつも立っていてそれぞれが派閥化していることは好ましくないと判断したアズールムーンは、そうした雑談スレッドを削 除した。そうして居場所を失った人たちがポケ喫茶に流れ着いた。花火派閥である。掲示板を趣味とする彼らのお陰で、1月はとんでもない盛り上がりを見せ た。最高瞬間閲覧者17人を記録し、私は安心して再びチャットを置き始めた。 そんな中、銀時のリア友のテカリンにポケ喫茶を乗っ取られた。立ち向かった住民は「反逆者」とされ、IPを晒された。背景は真っ黄色にされ、五十音のひら がなが全てNGワードにされた。しかし、銀時のリア友のLのハックにより、管理権を剥奪した。 2007年2月、だんだんポケモンに飽き始めた住民は、あまり書き込みをしなくなった。それに加え花火が掲示板を開設して、花火派閥が少しずつそちらに移 動したせいで、全盛期は終わりを告げた。
銀時が自ら管理人を辞める。続けて、リアルの都合でポケ喫茶を出て行くと言ったが、なんだかんだで通い続けている。その後、荒らし対策部隊「カラック隊」を設立。ポケ喫茶の住民が少しずつその隊員に配属された。
ある日、過疎化防止のためチャットを削除する。
銀時が2chに宣伝したせいで、2ちゃんねらーが喫茶を荒らしに来 た。ウイルスコードを用いた巧妙な手口で、3時間程常駐したので、止むを得なく規制した。それに紛れてポケ喫茶住民の掲示板の1つであった「馴れ合い BAR」から来た名無しが呼び込みをしたので、ポケ喫茶住民は彼を卑下した。すると見るに耐えない気持ち悪いAAを貼り、荒らし始めたので私は彼を規制し た。
2007年9月15日、ポケ喫茶は記念すべき一周年を迎えた。
2007年10月下旬、黄色い南極熊が自称マスコットキャラクターになる。
クリスマスにポケ喫茶は私によって大改造が行われた。 マスコットキャラクター南極熊が挨拶をするところは、「クリスマス恒例のサンタ」(画像はユースケ・サンタマリア)によるクリスマスのお告げに変化し、タイトル画にクリスマスツリーが付けられ、音楽が流された。 それから18禁サンタさんzipが配布された。
2008年2月下旬、私が倉庫用に借りていたホームページスペースのアカウントが削除され、画像のなくなった喫茶は無残な姿になる。 私は花火の鯖を借してもらい、住人が持っていたバックアップを頂戴して元の状態に戻した。
ニコニコ動画やコピペブログの台頭で、暇人がそちらに移り始め、掲示板サービスが全体的に過疎化し始めていた。ひろゆきは偉大である。
私はポケ喫茶で何か大きなことをしたいと考え、スレッド「ポケ喫茶でRPG作って本気を見せてやろうぜ」を立て、住民で役割分担をしてRPGを共同開発した。それに関して2つのスレッドが埋まったが、主催者の私が受験で忙しくなったため、RPG制作は中断されてしまった。
受験が始まってから、ポケ喫茶は過疎化している。原因として、ポケ喫茶住民の大半が高校生になって精神が成長したこと、Feruがtwitterの台頭であまり来なくなったことが挙げられる。哀しいことである。